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不知火 (陽炎型駆逐艦) : ウィキペディア日本語版
不知火 (陽炎型駆逐艦)[しらぬい]



不知火(しらぬい/しらぬひ)は、日本海軍駆逐艦陽炎型の2番艦である。この名を持つ日本海軍の艦船としては東雲型駆逐艦不知火に続いて2隻目。1番艦陽炎の沈没以降、陽炎型は不知火型駆逐艦として登録された。
==艦歴==

=== 太平洋戦争まで ===
不知火は浦賀船渠1937年8月に起工、1939年12月に竣工し、呉鎮守府在籍。同時に第18駆逐隊に編入され、11月15日、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。
太平洋戦争開戦時には同型艦の陽炎、朝潮型と共に第18駆逐隊に属し、南雲機動部隊の警戒隊として行動した。警戒隊指揮官(旗艦)は第1水雷戦隊司令官大森仙太郎少将(第1水雷戦隊旗艦阿武隈)。陽炎型姉妹艦4隻(谷風浦風浜風磯風)で編制された第1水雷戦隊・第17駆逐隊も警戒隊に所属して18駆と行動を共にした。1941年(昭和16年)11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の護衛艦として17駆・18駆各艦と単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。
1942年(昭和17年)1月5日、第18駆逐隊(司令艦/不知火、霞、陽炎、霰)は呉を出発〔#昭和17年1月~1水戦日誌(1)p.3『1月5日警戒隊(谷風、浦風、磯風欠)「トラック」ニ向ケ呉発』-p.56『麾下艦船部隊ノ行動』〕。機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第2航空戦隊ポートダウィン攻撃ジャワ南方機動作戦に参加した。3月1日、南雲機動部隊はオランダの商船モッドヨカード(8020トン)と遭遇〔#昭和17年3月~1水戦日誌(1)p.13『1日有明駆逐艦長→1日1730機動部隊指揮官警戒隊指揮官/一.捕虜船長機関長外計28名|二.状況左ノ通(イ)国籍「オランダ」船名「モッドヨカード」頓数8082頓、武装三吋高角砲1門機銃2基(以下略)』〕。不知火は国籍を示さぬモッドヨカードに対し砲撃を開始し〔#昭和17年3月~1水戦日誌(1)p.12『1日不知火駆逐艦長→1日1250機動部隊・警戒隊/只今ノ商船ハ七千頓級ニシテ国籍ヲ示サズ我之ヲ撃沈ス』〕、磯風、27駆2小隊(有明夕暮)と共同してオランダ商船を撃沈した〔#昭和17年3月~1水戦日誌(1)p.5『3月1日第18駆逐隊1小隊、第27駆逐隊2小隊及磯風「ジャバ」南方海面ニ於テ蘭国武装商船(モッドヨカード號)ヲ砲撃撃沈ス』〕。なお機動部隊護衛艦の砲撃に対し大森1水戦司令官や草鹿龍之介機動部隊参謀長は「射撃距離が遠すぎる。弾薬を節約せよ」と苦言を呈している〔#昭和17年3月~1水戦日誌(1)p.15『1日警戒隊指揮官/先ノ商船ニ対スル砲戦ニ於テ弾薬ノ消耗著シク大ナルモノ又射距離過大ナルモノアリ、目標ト状況トニ応ジ艦長ハ砲戦指揮上特ニ考慮ヲ要ス』-p.16『2日機動部隊参謀長→2日1730各駆逐艦司令/今後相当ノ強敵ニ遭遇スル算多ク且ツ弾薬ノ補充困難ナル現状ニ鑑ミ会敵ニ際シテハ適時射的ノ短縮砲火ノ管制等ニ依リ極力射撃効果ノ発揚並ニ弾薬ノ節約ヲ計ラレタシ』〕。4月のセイロン沖海戦を終えると、不知火は日本本土に戻り、呉で入渠修理を行った。4月20日をもって各隊は元所属部隊指揮下に戻り、第18駆逐隊も警戒隊(第1水雷戦隊)から第2水雷戦隊に復帰した。
5月にサイパンに進出、6月のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「不知火 (陽炎型駆逐艦)」の詳細全文を読む



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